私がケアマネージャー時代に担当だったTさん。
私がケアマネージャーとして関わっていた頃から、もう5年以上が経過している。
我が包括支援センター事務所の近くに一人暮らし。
主治医は、当院のA先生。
数年前から、ヘルパーのMさんが通院介助を行っている.
最近では、当院までのわずかな距離も歩行が難しくなり、車椅子での通院となっている。
それでも、当院に受診するときには必ず事務所を訪れてくれる。
自分が事務所にいて、Tさんの声が玄関から聞こえると、私は玄関に向かう。
私の顔を見るといつもTさんはこう言う。
「あ~~~、いたぁ!会えてよかったぁ~。うれしいよぉ」
これだけ。
そして、車椅子に乗るTさんの手を私はぎゅっと握る。
そして、Tさんもぎゅっと握り返してくれる。
「最近、握り返してくれるTさんの力が、日に日に弱くなってくる・・・」そう感じている。
いつもと変わりないあいさつ。
そしてこれからも変わりなく続いてほしいひと時・・・。
つい先日、通院の帰りに来たTさんに、事務所にあったお菓子を数個手渡した。
「あらまぁ、うれしい。いつかお返ししなきゃぁねぇ~」 とTさん。
私はこう答えました。
「いいですよ、まとめてで いつか、三越かどこかでおいしいもの食べさせてくれれば!」
「そうね、じゃぁがんばって歩いてあんたを連れていけるようにならなきゃね!」
この日Tさんは、事務所からMヘルパーと一緒に歩いて帰っていった。
ずっと変わらない・・・。
行けばいて、自分のことをわかっていて、ずっとここにいる。
もしかしたらTさんは、私が担当のケアマネージャーだったとか、今、ここで何をしているのかなどよくわかっていないのかもしれない
それでも、ここに行けば、こんな感じの人がいる。しばし、会話を交わす人がいる。
それでいい。
車椅子で病院へ行く道すがら、Mヘルパーに、
「ちょっくらここに寄って、あの人に会っていくとしようか!」
いつもの日常が、これからも続いてくれればいい。
何かあったときだけ関わる。そんな日常がない支援なんて何の意味があるのでしょう・・・。
介護が必要な人 という前に、
利用者 という前に、ここで暮らす住民としての自分を、いつまでも持ち続けたい。住民として向き合ってほしい。
これって、当然の思いではないでしょうか?
この地域で暮らしている、そして働いている人間同士の関係性があったっていい。
定期的に会う人間関係の中で、片方はずっと「専門の人」ではどちらも疲れてしまう。
どちらかというと、この「専門」と呼ばれる人の方が、もう少し肩の力を抜いた方がいい・・・。最近、本当にそう思うんですよね。
変わらずに、ここにいる。
自分にとって大事なものは、日常の中にあって、自分の働くここにあって、出会う一人ひとりとのやりとりの中にあるんです。
大切だと思える日常がなくて、何を育むことができるでしょう。
人と人との関係で育む日常が本当に大切で、いとおしくて・・・・。そう思える自分がいれば、自分はまだ大丈夫!逸れていない。
これを自分の歩む基準においています。