「やらされ感」で人に向き合ってもらっても、弱い地位、弱い立場、不自由な状態、どうにも抜けられないつらい状態に押し込められ、動けないでいる人たちは本当の自分の思いを話せない。手をさしのべられ、その手に自分の手をさしのべようと思えるのは、その手から伝わるあたたかな思い、日常的な関係性・・・。
そもそも、「見守り」って何なのか?そこが不明確であると「見守り」=「把握や監視」になっていってしまいます。
みま~もが考えるミマモリとは、
「見守り」=「つながる」こと。
一朝一夕にできることではないということはわかっている。でもこの先にしか拓かれる道はないとも思っています。
手をさしのべるためには、相手に手が届く距離にいなければならない。手の届く距離にいる人しか手をさしのべることはできない。手をさしのべることは「地域」でしかできない。
この間起こった様々な出来事から、改めてそう感じている。