私たちは様々なことを日々体験しています・・・。
本を読む、人と話す、演劇を鑑賞する・・・何でもいいんですが大事なことは、日々体験することから何かを深く感じとることができるかどうか、自分の行動する指針(動機)をつかみとることができるかどうかということです。
そうした鋭い感性を持っているかどうかが、人と何かを創りあげていくことができるかどうかに関わっているような気がします。
「誰もやろうとしなぃ、やる気がない、やっても無駄」などということをよく耳にしますが、私たちが向かい合う、手を結ぶ人たち、自分が必要とされる場を求めている人たちは、自分の未来が見えずらい今の社会の中でたくさんいるはずです。
じつは、「いない」のではなく
発見できない、
見つける眼がないということなのです。すてきな人たちは、そこで人が暮らしている限りたくさんいるのです。
感性を磨くためには、いろいろな体験や経験をしないと磨けないと思っている人もいますが、それは違うと思います。
もし、そうなのであれば高齢者に関わる仕事をしている私が、関わっている方と同じ年齢に達しなければ、感性でその人をつかむことはできないということになります。
数多くのことを体験したかどうかに本質があるのではなく、たとえちょっとした日常のものごとであっても、そのとき向き合っている人の気持ちを深く感じとることができるかどうかということにその本質があるのでしょう。
様々な体験を時間をかけて経験することも、自分にとって大きな財産ですが、その一つひとつをどれだけ深く体験したかが大事なのです。
まるで冒険活劇のような体験を、別の2人が同じように経験しても、深く体験できている人と、できていない人がいます。
鋭い感性で深くものごとをとらえた人の話は、相手をひきつけ、一緒にそれを経験したかのように胸が躍る。
一方、同じように経験してきたが、深く体験できなかった人の話は「ふうん」でおわってしまう。
「感性が磨かれる」ということは
物事の本質をつかむことができるということにつながります。
本質をとらえ相手と向き合うからこそ、相手も「自分を理解してくれている」、「この人には本音で話してもいいんだな」と関係性が育っていくのだと感じています。
下の写真は、私の親族の家のぶどう棚です。
8月になると、このぶどう棚に巨峰がたわわに実るんですよ。でも注意しなければいけないのは熊と猪。この2匹が丹精込めて育てたぶどうを食べてしまうんです。
ぶどうがこの2匹の動物に食べられてしまったとき、見てなくてもどちらが食べて行ったかわかるんです。
ぶどう棚の地面にぶどうを食い散らかした跡があれば猪。ぶどうだけが消えていて、食い散らかした形跡がない場合は熊なんです。
なぜかというと、熊は手でぶどうをもぎ取り、小脇に抱えて山中に持って行ってしまうんです
ぶどうがなくなるのは悔しいですが、月夜に巨峰を小脇に抱えて嬉しそうに帰っていく熊を想像すると何か微笑ましくなってしまいます。(亡くなったおじさんにこんなこと言ったら間違いなく怒られます)
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