1月21日伯父が亡くなった。9年前に脳梗塞を発症、その後、認知症が進み、年が明けて肺炎になり入院、翌日息を引き取った。
父の兄で、母の姉が嫁ぎ、本家を継いでいた。山梨県勝沼インターから、山を登り30分、山以外何もない田舎である。スーパーもコンビにもない、買い物は車で20分山を降りる。バスの終点だが、バスは午前1本、午後2本、路線廃線の話しも出ている。
私が子供の頃は養蚕、伯父が脳梗塞を発症するまでは、巨峰を育て出荷していた。私の家は両親が共稼ぎだったため、夏休み40日中、39日は山梨の伯父さん宅で過ごした。
伯父さん伯母さんは、それぞれ、父の兄、母の姉だったため、親元を離れている感じがなく、伯父・伯母も私が寂しくならないように接してくれていた。
第2の父、母のような存在だった。伯父・伯母も息子同様に接してくれ、畑の肥料巻き、蚕のえさやり等、教えてくれた。
伯父に介護が必要となり、地元のケアマネージャーの方に会い、住宅改修も一緒に行わせてもらった。都会の住宅改修は何件も行ってきたが、100年以上も経つ古民家のような本家である。
叔父は、外出するときには玄関からだが、外にあるトイレに行くのは縁側から降りて行く。
トイレも20cmの置石に昇り、さらにトイレに入るのも一段上がる。手すりの設置、段差解消もケアマネージャーと、叔父の行動に合わせ話し合いを重ねて付けたものである。
介護が必要になった当初は、思うとおりにならない憤りを、伯母に対しての暴力、酒に向けたこともあった。
この頃の伯父を、山奥まで車で何度も来てくれ、デイサービス利用に繋げてくれたのは、ケアマネージャーの方の熱意に他ならない。
デイサービス初日には、ケアマネージャー自身も正装して家まで迎えに来てくれ、同行してくれたそうである。
このケアマネージャーが実現させてくれたデイサービス利用は、亡くなる2日前まで続いた。叔父は、デイサービスが楽しみとなり、急変による入院まで皆勤賞だった。
伯父が亡くなった当日、デイサービス職員、ケアマネージャーが自宅に集まってきてくれ、伯母と、皆で号泣したそうである・・・。
25日、告別式が終わった後、伯母がこのように話してくれた。「ケアマネージャーさんも、デイサービスの人も、みんな○○(私)のように優しい人たちばかりだった・・・」と伯母が話してくれたとき、涙があふれ出て止まらなかった。
伯母にとって、ケアマネージャー、デイサービススタッフが、近くにはいない息子や娘に感じていたようである。
人里離れた村の古くからある一軒家に、これからは伯母一人で住み続ける。今さら都会の息子宅へ行くつもりもさらさらない。きっと、生涯ここで伯父の墓を守るつもりであろう。
告別式後、村の組の人たちが家に集まる。
組長が厄を払い、(参加者全員茶碗と箸を持ち、箸で茶碗を叩きながら、「南無阿弥陀ー」と唱え続ける)煮干しと酒を皆に振る舞い、伯父の思い出を語り合う。
煮干しは尾頭付き。なぜ煮干の尾頭付きかというと、葬儀が終わり、厄を払い、これからは尾頭付きを食べてもよい(日常の生活に戻る)という意味がこもっているそうである。
帰宅の際、組の女衆が伯母に「何でも言ってきて!遠慮はなし!何でもするからね」と声を掛け合う。
都会から離れたこの場所に、自分が求めているネットワークが存在している気がして、何より親族として、感謝の気持ちでいっぱいになった。
故郷に陽が沈む
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組の人たちが、実家に集まる。都会では今はない光景ですよね。
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良いケアマネージャーが担当で良かったですね。
昨今、帳票類等の作成作業等で忙しいケアマネージャーの仕事ですが、親身になっての対応を文から感じました。
在宅介護の素晴らしさを改めて感じました。
ありがとうございました。
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伯父の死を通し、生命に関わる仕事の重要さ、すばらしさを実感いたしました。自分自身の仕事に対する姿勢にも大きな影響をもらったと実感しています。